NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/18


賣太神社 Metajinja 

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 賣太神社(めたじんじゃ)は三社神社とも呼ばれ、ご祭神は稗田阿礼命(ひえだのあれのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)である。
 天武天皇の舎人である稗田阿礼命は、朝廷に奉仕した猿女君稗田(さるめのきみひえだ)一族の居住地で知られる。天皇は、阿礼が記憶力や理解力に加え、学芸話術の才にも秀でていたのをお褒めになったといわれている。そのため、賣太神社は学問の神・知恵の神として信仰が厚く、毎年八月一六日は童話の神としての「阿礼祭」がおこなわれる。
 昭和五(1930)年、当時の奈良県立図書館長であった仲川明氏らが提唱し、全国童話連盟の人たちにより始められた祭りである。
 当日は、日本最古の書物「古事記」の語り部であった阿礼の遺徳をしのび、太鼓や鐘、鉦鼓とともに神前で「稗田舞(ひえだまい)」が奉納され、続いて地元の女の子たちが浴衣と花笠姿で「阿礼さま踊り」を披露する。
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2008/4/8


長等山園城寺(三井寺) Nagara-san-onjou-ji(Mii-dera) 

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 天台寺門宗の総本山である三井寺(みいでら)は 正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)という。また、湖国近江の名勝・近江八景の一つ「三井の晩鐘」としても知られる。
 朱鳥元(686)年、天武天皇(てんぶてんのう)により建立されたという。俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」の厳儀・三部潅頂(さんぶかんじょう)の法水に、用いられたことに由来していると伝えられる。
 現在も、金堂西わきに閼伽井屋(あかいや)があり、三井の霊泉として崇められており、それを取り囲むように蓬莱の石積みがある。また、閼伽井屋は慶長五(1600)年に、建立されたものとされ、重要文化財に指定されている。
 ここは、大友皇子(おおとものみこ)の家居の跡とされ、現存する日本庭園の最古の遺跡と伝えられている。
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2008/3/11


太平山三吉神社 Taiheisan-miyoshi-jinjya 

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 太平山三吉神社(たいへいざんみよしじんじゃ)は秋田県秋田市の標高1171メートルの太平山山頂に建つ神社である。昔より修験の場として崇められ、全国にある三吉神社、太平山構の総本宮である。通称、みよしさん、さんきちさんの呼び名で親しまれている。
 この神社は天武天皇の時代、白鳳二(646)年に役の行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)によって創建されたと伝えられている。後に、坂上田村麻呂が東夷征討の際にこの神社で戦勝を祈願し、お堂を建てたともいわれている。
 太平山は秋田県の東にそびえ、秋田のシンボルともいえる山である。頂上からは世界遺産である白神山地、鳥海山、仙北平野などの美しい景色をパノラマで眺めることができ、また、鳥居と雲海の幻想的なコントラストには、この地が霊験あらたかなことを痛感させられるという。
 毎年一月一七日には「ぼんてん」と呼ばれる、多数の男衆が神様のお力に授かろうと激しくもみあう勇壮な祭りが執り行われ、大勢の見物客が訪れるといわれる。
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2007/9/21


慈眼院 多宝塔(国宝) Jigen-in Tahoutou The Tahoto Pagoda (National Treasure) at Jigenin Temple

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 慈眼院(じげんいん)は、大阪府泉佐野市日根野にある真言宗御室派の寺である。本尊は大日如来。仏塔古寺一八尊霊場第一二番札所とされる。
 天武二(673)年、天武天皇の勅願寺として、覚豪阿闍梨によって無辺光院という名で創建された、泉州の最古刹とされる。
 多宝塔(たほうとう)は、弘仁八(817)年に弘法大師によって建立されたと伝わる。
 現存する多宝塔は、鎌倉時代の文永八(1271)年に建立されたもので、高さは10・8m、桧皮葺で高欄のない縁をめぐらし、中央間は扉が大きい板唐戸、脇間連子窓、組物は二手先、中備えは中央間のみ蟇股となっている。
 日本最小の木造多宝塔で、日本三名塔の一つとされ、国宝に指定されている。
 慈眼院の多宝塔は、小振りながら内に秘められた力強さと、優雅な趣が感じられる建築物である。
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2007/8/23


野間大坊 Noma-daibou Noma Daibo

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 野間大坊(のまだいぼう)は、正式には大御堂寺という名の真言宗の寺。歴史は古く、七世紀中頃の天武天皇の時代に始まる。源義朝(みなもとのよしとも)が湯殿で謀殺された所として名高い。義朝とは、頼朝・義経の父にあたる。
 平治元(1159)年、平治の乱に破れた源義朝が、家来の鎌田氏の義父、長田忠致(おさだただむね)を頼って美濃から知多半島沿岸を通り、野間に落ちのびた。義朝は正月を忠致宅で過ごすが、平氏からの恩賞を目当てにした長田父子に浴室で殺されてしまう。
 野間大坊には義朝の墓がある。義朝は最期「せめて木刀一本でもあれば殺されず済むものを」という言葉を残したといわれ、その墓には多くの木刀が供えられている。木刀を奉献すれば願いが叶うといわれている。
 敷地内には義朝の首を洗ったと伝えられる血の池、湯殿跡などが今も残されている。
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2007/8/10


勝手神社 Katte-jinjya Katte Shrine

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 勝手神社(かってじんじゃ)は、奈良県吉野町吉野山にある神社である。祭神は、大山祇神・木花咲耶姫命ほか3神。
 吉野八社明神の一つとされる。
 672年、壬申の乱の折、吉野に兵を挙げた大海人皇子(天武天皇)が、この神前で琴を奏でていると天女が舞い、吉兆を示したという伝説がある。
 1185年には、雪の吉野山で源義経と別れた静御前が追手に捕らえられた際、この社殿の前で雅な姿で法楽の舞いをまい、居並ぶ荒法師たちを感嘆させたという話が伝えられている。
 社殿は火災による焼失後、安永5(1776)年に再建されたものであったが、2005年、不審火により再び焼失してしまった。
 現在は一部に当初の木肌を残すのみで、有形文化財としての復興は難しいと言われている。
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2007/3/15


豊積神社 Toyozumi-jinjya Toyozumi Shrine

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 豊積神社(とよずみじんじゃ)は、静岡県庵原郡由比町にある神社である。祭神は、木花之佐久夜比賣命とされる。
 創建に関しては、諸説があるが、境内案内では、天武天皇白鳳年間(7世紀末)に五穀の神として豊受姫が祀られ、延暦10(791)年、浅間信仰の普及から、神主の神託により、木花之佐久夜比賣命を祀る神社へ変化したという事になっている。また、別の史料では、創建そのものが、延暦10年となっている。
 いずれにしろ、平安時代の延喜式当時には、浅間神を祀る神社であり、往古は豊積之浅間大明神と称していた。
 坂上田村麿が東征の戦勝報告にここに立寄り宴を催した事から、今も続く「お太鼓祭り」が起ったという。
 豊積神社は、太古からの長い歴史を持つ社である。
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2007/3/6


岡寺 Oka-dera 

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 岡寺は奈良県高市郡明日香村、岡山の中腹に位置する真言宗豊山派の寺院。正しくは龍蓋寺(りゅうがいじ)であり、岡寺は通称。山号は東光山、西国三十三ヶ所、第七番札所。
 天武天皇の勅願により、早世した草壁皇子の宮である岡宮を与えられた義淵僧正が開基したと伝えられる。
 本尊は如意輪観音坐像、奈良時代の作で塑像としては日本最大の4・6メートルの高さを誇り、重要文化財に指定。日本三大仏の一体でもある。
 境内には寺名の由来である、義淵僧正が法力により池に龍を封じた龍蓋池がある。この故事から日本最初の厄除け寺と言われ、鎌倉時代の水鏡にも記述がある。
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