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2008/5/9


興福寺 北円堂 Koufuku-ji Hokuendou 

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、南都七大寺第2番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により創建、和銅三(710)年に藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 北円堂(ほくえんどう)は、養老五(721)年、藤原不比等の一周忌として不比等の霊を慰めるため、元明上皇と元正天皇が長屋王に命じて建てさせた。
 現在の建物は承元二(1208)年頃に再建されたもので、興福寺に現存している建物の中では最も古い建物となる。
 堂内には、いずれも国宝である運慶一門が制作した鎌倉時代の本尊・弥勒如来像や、無著(むちゃく)・世親(せしん)菩薩像などを安置している。
 興福寺の北円堂は、華麗で力強く、優美な八角堂である。
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2008/5/1


鬼ノ城址 kino-joushi 

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 鬼ノ城址(きのじょうせき)は、岡山県総社市奥坂にある城跡である。
 築城の時期については諸説あるが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため出兵した、天智天皇二(663)年の白村江の海戦において大敗した後、唐・新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城のひとつと考えられている。
 吉備高原の南端に位置する標高400mの鬼城山に築かれた山城で、全周約2.8kmの城壁が築かれ、城門が4ヶ所、排水機能をもつ水門が6ヶ所存在していた。
 快晴時には、瀬戸内から遠く四国の山並みも望見される眺望絶景の地で、現在は公園として整備されており、角楼や西門を復元し、城壁に沿って遊歩道が整備され、ハイキングコースとしても脚光をあびている。
 鬼ノ城址は、長い歴史を誇る古代山城跡である。
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2008/4/8


長等山園城寺(三井寺) Nagara-san-onjou-ji(Mii-dera) 

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 天台寺門宗の総本山である三井寺(みいでら)は 正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)という。また、湖国近江の名勝・近江八景の一つ「三井の晩鐘」としても知られる。
 朱鳥元(686)年、天武天皇(てんぶてんのう)により建立されたという。俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」の厳儀・三部潅頂(さんぶかんじょう)の法水に、用いられたことに由来していると伝えられる。
 現在も、金堂西わきに閼伽井屋(あかいや)があり、三井の霊泉として崇められており、それを取り囲むように蓬莱の石積みがある。また、閼伽井屋は慶長五(1600)年に、建立されたものとされ、重要文化財に指定されている。
 ここは、大友皇子(おおとものみこ)の家居の跡とされ、現存する日本庭園の最古の遺跡と伝えられている。
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2008/1/28


揖宿神社 Ibusuki-jinja Ibusuki Shrine

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 揖宿神社(いぶすきじんじゃ)は、鹿児島県指宿市東方にある神社である。祭神は大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)他八柱。
 社記によれば、慶雲三(706)年、天智天皇の由緒の地として葛城宮が創建されたという。
 貞観一六(874)年、現在の開聞岳の大噴火により遷宮し、枚聞神社を勧請して開聞新宮を名乗った。明治維新に際し揖宿神社と改称され、現在に至る。
 指宿郷の総氏神として地方開拓の祖神、航海安全、諸業繁栄の守護神として崇敬され続けてきた。
 現在の社殿は弘化四(1847)年、島津斉興(しまづなりおき)によって建てられたものである。
 境内には推定樹齢七〇〇年以上といわれる楠木の大樹八株があり、全体が「揖宿の社叢(しゃそう)」として県指定の天然記念物となっている。
 揖宿神社は、薩摩藩代々の藩主から篤く尊崇されてきた、古くから知られた神社である。
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2007/11/12


鬼室神社 Kishitsu-jinja Kishitsu Shrine

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 鬼室神社(きしつじんじゃ)は、滋賀県蒲生郡日野町小野にある神社である。祭神は、鬼室集斯(きしつしゅうし)。
 鬼室集斯は、斉明天皇六(660)年、唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済を復興すべく戦った鬼室福信(ふくしん)の子供である。
 百済国復興運動に失敗後、渡来した百済人であり、優れた文化人であったと言われている。
 集斯は時の天智天皇に重用され、男女700余人とともに蒲生郡に移り住んだ。
 神社の本殿裏の石祠に鬼室集斯が葬られ、祀られているところから、永享元(1429)年、この名称で創建されたとされる。
 古くは不動堂と言い、小野村の西の宮として江戸期まで崇敬された社であり、小野の宮座である室徒株(むろとかぶ)によって護持されてきた。
 鬼室神社は、朝鮮渡来の亡命貴族を祀る古から続く社である。
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2007/10/2


行基 Gyouki Gyoki

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 行基(ぎょうき)は奈良時代の僧。古代民間仏教のカリスマで、その偉業により行基菩薩と尊称された。
 天智天皇七(668)年、河内国(現・大阪府)に誕生。法興寺の道昭を師として、一五歳で出家。仏教教理の他に、土木技術を学んだ。
 「教団は王権から独立すべきである」という三階教の教えを根本思想に、伝道と社会事業を融合させ、民衆を煽動した。畿内を中心に諸国を巡り、造寺、墾田開発、橋梁架設などを押し進めた。
 驚異的な指導力が朝廷に危惧され、僧尼令違反で禁圧されたが、大仏造営の勧進役を買って出ると、逆に朝廷より大僧正位を授けられた。
 大仏造営中の天平二一(749)年、奈良・菅原寺で八一歳で入滅。『日本霊異記』『本朝法華験記』『日本往生極楽記』に数々の伝説が残る。行基の軌跡を記した「行基図」が、日本地図の原型という説もある。
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2007/8/16


上野三碑 Kouzuke-sanpi Kozuke Sanpi

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 上野三碑(こうずけさんぴ)は、山ノ上碑、金井沢碑(群馬県高崎市山名町)と、多胡碑(群馬県多野郡吉井町)の3つの古い石碑の総称である。いずれも国の特別史跡に選定されている。
 山ノ上碑は、天智天皇一〇(681)年の建碑といわれ、隣接する山ノ上古墳の、墓誌であると考えられ、日本最古のものである。
 金井沢碑は、神亀三(726)年に建碑された。古い隷書体の特徴を持つ書体で書かれた内容は、上野国高田里の三家(ミヤケ)の子孫が祖先の菩提と父母の安穏を仏に祈願しているという物である。
 多胡碑は、和銅四(711)年に建碑された、日本三大古碑の一つとされる。多胡郡が設置された事を記念した内容とされるが、解釈については意見が分かれている。地元では、昔から「羊太夫」の墓とされ、「羊さま」と呼んで尊崇されてきた。
 上野三碑は、当時の政治状況を推測出来る歴史的な碑である。
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2007/4/25


安井金比羅宮 Yasui-konpiraguu 

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 「安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)」は、京都府京都市東山区にある寺。
 668年、天智天皇の御代として、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建したのが始まりと言われる。
 「安井の金比羅さん」の名で親しまれ、「悪い縁を切り・良縁を結ぶ」のご利益で知られている神社境内には、「縁切り・縁結び碑」と呼ばれる石があり、お札に願い事を書き入れ石に貼ると、願いが叶うといわれている。他に「海上安全」「交通安全」のご利益でも知られている。
 また「金比羅絵馬館」があり、日本独特の信仰絵画である絵馬を展示している。
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