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2007/10/18


小田城 Oda-jyou 

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 小田城は茨城県つくば市、宝鏡山の麓に位置した城である。
 鎌倉時代初期に小田氏の祖である八田知家が築城した。源頼朝の重臣であった知家は常陸守護に任じられ、以降小田氏は関東で勢力を誇った。
 延元四(1339)年、常陸に上陸した北畠親房が小田城で神皇正統記や職原抄を記したことでも知られる。
 茨城県下でも有数の城跡であり、国指定史跡にも指定されている。
 完全な平城であり鐘楼台と涼台が僅かに高い以外は殆どが平地。元々は方形の武家屋敷が増築を繰り返し大きくなったとされる。
 以前は筑波鉄道の線路が引かれていたが現在は廃線となり、遊歩道として整備されている。
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2007/9/19


密貿易屋敷 Mitsu-boueki-yashiki 

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 密貿易屋敷(みつぼうえきやしき)とは、鹿児島県南さつま市坊津にある森吉兵衛屋敷の事である。
 リアス式海岸にある坊津は琉球・南方諸国に近く、古くから日本三津といわれた中国との玄関口として栄えた貿易港であった。
 江戸時代に入ると、幕府の鎖国政策により大陸との貿易は長崎の出島ひとつとなった。
 しかしこれは表向きのことで、そのあともこの港を本拠地として、薩摩藩は大陸との密貿易を続けたのである。
 屋敷は、万延元(1860)年、三代・森吉兵衛が建て、五代・吉兵衛まで住んでいたもの。
 屋敷内には隠密に貿易を行うため、中二階・覗き窓・隠し部屋など、構造上の様々な工夫がなされている。
 密貿易屋敷は、江戸の昔が偲ばれる史跡である。
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2007/8/22


信濃国分寺 三重塔 Shinano-kokubun-ji Sanjuu-no-tou 

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 奈良時代、聖武天皇(しょうむてんのう)によって創建されたとされる「信濃国分寺(しなのこくぶんじ)」は平将門の乱により焼失した。その後再建されたものの戦火で再び焼亡してしまった。現在は万延元(1860)年に竣工された本堂と、室町時代に建立されたといわれる三重塔が残る。塔の残っている国分寺の中で一番古い塔である。
 「信濃国分寺三重塔」は日本と中国の建築技術が取り入れられた、珍しい和唐折衷の美しい塔である。
 建築は当時の日本様式のもので、軒下などには派手な装飾のない質素な作りになっている一方で、内部には「如意頭文(にょいとうもん)」という珍しい彫刻が施されている。また赤や緑の色彩豊かな絵画が描かれていたり、天井がニ段の組み物で支えられていたりするなど、当時としては珍しい中国の建築様式を垣間見ることができる。
 昭和二五(1952)年に国の重要文化財に指定された。
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2007/7/20


弘前 誓願寺 Hirosaki Seigan-ji 

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 誓願寺(せいがんじ)は慶長元(1596)年、現平賀町に当たる大光寺に創建され、元和元(1615)年の弘前城築城の際に現在地へ移された。
 六年という永い歳月をかけ、寛永元(1624)年に京都誓願寺の大仏を模した一丈六尺(約4・8m)の阿弥陀仏と十八間(約32m)四方の大殿を建てたが、元禄元(1688)年の火災で焼失した。
 元禄元(1688)年のほか、寛延元(1748)年、天保十(1839)年、明治十四(1881)年と四度の火災で山門以外は焼けており、当時の資料なども残されていない。
 焼失を逃れたこの山門は江戸中期頃のものとされ、屋根に取り付けられている懸魚(げぎょ)には、鶴と亀の形の彫刻が彫られているため、「鶴亀門」とも呼ばれている。昭和一三年に重要文化財に指定されている。
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2007/5/8


鳥取 名和神社 Tottori Nawa-Jinja Tottori Nawa Shrine

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 鳥取の名和神社は、鳥取県西伯郡大山町にある神社である。祭神は、名和伯耆守源朝臣長年公(名和長年)とされる。
 名和長年は、執権北条氏によって後醍醐天皇が隠岐に流された時、天皇を迎えて幕府側と戦い、勝利し、伯耆一帯を平定した。
 後に南北朝の争乱により足利軍と戦い、延元元(1336)年、京都一条大宮で敗れ戦死した。
 名和神社は17世紀後半、鳥取藩主池田光仲によって創建された、南朝の忠臣名和長年以下一族42名の英魂を祀る神社である。
 明治一六(1883)年、現在地へ遷宮された。
 神社南手一帯は名和公園となっており、約300本の桜が植えられている。後方にそびえる大山、船上山にゆったりとたなびく霞に連なり、幻想的な景観である。
 名和神社は、忠臣・名和長年を祀る桜の美しい神社である。
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2007/5/2


火伏せの虎舞 Hibuseno-toramai 

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 火伏せの虎舞(ひぶせのとらまい)は、宮城県加美郡加美町にて行われる祭である。昭和49年、宮城県無形文化財に指定された。
 旧中新田地区は、春先に奥羽山脈から吹き付ける強風のために、度々大火に見舞われていた。
 延元四(1339)年、「雲は竜に従い、風は虎に従う」の故事に倣い、防火祈願として火伏せの虎舞が始まったという。
 祭りは、午前7時の花火を合図に華やかに飾り付けた山車が町内に繰り出し、虎に扮した子供達が早朝から各戸を回って防火を祈願する。
 商店街では酒造店旧店舗の屋根で、数組の虎が舞を披露する。
 現在は高校生や消防団員による笛太鼓のお囃子にあわせ、町内の中学生によって、毎年4月29日に演じられている。
 火伏せの虎舞は、勇壮でにぎやかな、伝統の祭である。
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2007/3/12


吉野神宮 Yoshino-jinguu Yoshino Jungu Shrine

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 吉野神宮は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある神社。祭神は、後醍醐天皇とされる。
 吉野山は、後醍醐天皇が文保2(1318)年、天皇親政を志し、北条氏を倒して建武中興を成就したが、足利尊氏の造反にあい、延元元(1336)年、吉野山に遷幸され、吉野朝廷(南朝)を樹立したところとして知られる。
 後醍醐天皇死後は吉水院にて仏教式の供養を行っていたが、明治維新後に吉水神社となった。
 その後、明治政府によって後醍醐天皇を祀る神社の創建が決定し、明治25(1892)年、社殿が竣工し、吉水神社から後醍醐天皇像を移して、新しく吉野宮として創建された。
 大正7(1918)年、神宮の号を奉称して「吉野神宮」と改称された。
 吉野神宮は、後醍醐天皇を偲ぶ、荘厳な神社である。
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2007/2/6


龍口寺 Ryuukou-ji 

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 龍口寺は、神奈川県藤沢市片瀬の龍口刑場跡に建つ日蓮宗の寺である。日蓮宗霊跡本山で、本尊は日蓮聖人像。
 龍ノ口法難と言われる事件がある。文永八(1271)年、捕らえられた日蓮上人は、9月12日に処刑される事となっていた。
 当日、首切りの座に据えられた時、にわかに雷鳴が轟き、刑吏が振り上げた刀が感電して折れてしまった。そこへ北条時宗の使者がきて、処刑は中止、佐渡への流罪になったのである。
 以来、この地は日蓮法難の霊蹟と言われ、日法はこの霊蹟を保護する為にここに草庵を結んだ。延元二(1337)年、自ら刻んだ日蓮像を安置し、寺を創建した。延文二(1357)年には、豪壮な伽藍の大寺を建立した。
 龍口寺は、県内最古の唯一木造の五重の塔や仏舎利塔、宝物館など、見所の多い場所である。
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