NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/3/17


【無】 Mu Nothing, Nothingness

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 「無」は「舞」の初文(初めの字形)です。伝統的な「六書(りくしょ)」の分類に従いますと、「無」は文字の音を借りる仮借文字です。ただ、「六書」という分類方法は、漢字成立から千年後の当時の漢字を分析するためにつくられたものなので、それに基づいて漢字が発明されたという結論を導くことは誤解になりかねません。
 当たり前のことですが、基本的に漢字は象形文字なので「何もない」という意味を表すのは本来とてもできないことです。時代が下り人々の考えや思想の抽象化に仮借文字はとても役立ちました。仮借文字は自然にできたのではなく、約束や慣例の中から意味を与えられた文字のグループです。
 「無」が「舞」の初文であるという関係は甲骨文で分かります。実は人が踊り、袖に飾りがぶら下がっている形です。『論語・顔淵、第十二』には「… 遊於舞雩之下。」「… 舞雩の下に遊ぶ。」がみられます。「雩(う)」は雨乞いのための祭祀儀式の踊りや、神樂を舞う場所です。「無・ない」の意味は「雨がない」から生じたのではないかとも思われます。そういう風に理解しますと、仮借文字という後世の概念に頼る必要もなくなります。
 どちらにしましても、「無」が「家が火災に遭うことを写しているところから『何もない』という意味になる」という説明は当たりません。

 
■ 無・甲骨文(こうこつぶん)
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2008/2/29


ちょいのちょい Cyoi-no-cyoi 

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 ちょいのちょいは、鹿児島県指宿市小牧地方に伝わる民俗芸能である。
 第一七代島津家藩主・島津義弘(1535~1619)が、朝鮮出兵する際の凱旋祝いとして唄い踊られたとか、朝鮮出兵後、帰国祝いとして始めたと伝えられ、今でも祝い事やイベントの時に踊られている。
 唄は、戦国時代の武士の唄らしく、勇ましくて男らしい曲調が感じられる内容である。
 踊りは、色物の着付に鉢巻・たすき・手甲・足絆・足袋・草鞋・刀・扇子の派手な出で立ちで、太鼓や鉦をならしながら、2人1組となって踊る。
 棒踊のように打ち合わず、二人一組で身ぶり・手ぶりを交えて踊るのが特色とされる。
 ちょいのちょいは、いかにも戦国時代から伝わるものらしい、勇壮な郷土芸能である。
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2008/2/5


鈴かけ馬踊り Suzu-kake-uma-odori 

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 鈴かけ馬踊りは、天文一二(1543)年から鹿児島神宮に伝わる馬のマンボ踊りである。鈴かけ馬は九州のいたる所で伝えられているが、その中で馬が躍るのは全国にも類例がなく、珍しい祭として知られている。
 毎年旧暦の正月一八日に馬を飾りたて鈴を付けて踊らせ、五穀豊穣を願うという。本来は初めての馬の日に行うことから初午祭というが、最近では少し温かくなった二月中旬の日曜に行っている。
 金銀の鞍に五色の布をさげ、たくさんの鈴をつけ華麗に着飾った馬が、美しい娘・ヨカオゴジョと、美しい男子・ヨカニセドンの踊り子連を従え、本宮まで参詣する。
 派手な化粧をしたヨカオゴジョ、ヨカニセドンが鉦や三味線、太鼓の音に合わせて馬を囃したてると、馬は首で拍子をとりながら大きな身体を左右に振り、見事な足さばきでマンボ踊りを披露する。
 毎年二〇数頭の馬と約二千人の踊り連が繰り出す、大変賑やかな祭りである。
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2008/1/24


アイヌ古式舞踊 Ainu-koshikibuyou 

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 北海道一円に居住している、アイヌの人々によって伝承されている芸能を「アイヌ古式舞踊(こしきぶよう)」という。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 豊かな、そして厳しい自然の中でアイヌ民族独自の歌や舞がうまれ、祭祀の祝宴や行事の際に踊られるものである。
 「アイヌ」とはアイヌ語で「人間」という意味である。アイヌの人々は、自然から習得した知恵と工夫、また生活習慣や信仰が、親から子へと大切に伝えられてきた。
 祭祀や行事のときに、ウポポと呼ばれる歌と、リムセと呼ばれる輪踊を基本に踊られ、動物のしぐさを真似た「鶴の舞」や儀式的な「剣の舞」など多様な舞が伝承されている。これらはアイヌの主要儀式の際に踊られ、また家庭での行事の際の祝宴などで踊られいたもので、現在では道内の様々な祭りでも披露されるようになった。
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2007/12/14


川上踊 Kawakami-odori 

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 いちき串木野市は、鹿児島県の薩摩半島にある、吹上浜の北端に位置する。薩摩藩の「三国名勝図会」に記されている優美な霊峰・冠岳があり、また地元でつけあげと呼ばれる「さつまあげ」は串木野地区が発祥の地として知られている。
 そして川上地区には、古くから「川上踊(かわかみおどり)」が伝承されている。五穀豊穣と平和を願うために始められた踊りであり、四百年ほどの歴史をもつ。
 毎年八月二六日におこなれていたが、第二次世界大戦により中断を余儀なくされた。その後、昭和三九(1694)年に復活し、現在は川上踊保存会によって伝承され、八月下旬の日曜に披露されている。
 踊り子は、鐘と太鼓を打ち鳴らしながら終日踊り歩き、勇壮華麗な姿をみせる。
 踊りは全部で二三曲披露され、約五ヶ所の神社などに奉納する。
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七夕踊 Tanabata-odori 

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 鹿児島県いちき串木野市の大里地区で、毎年月遅れの七夕にあたる八月七日に近い日曜日に開催されるのが「七夕踊(たなばたおどり)」である。五穀豊穣を祈るこの祭りは、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 大里地区出身の者は、必ず一度は太鼓を打たないといけないと言われており、県外に出ている者も毎年この踊りに参加するため帰省する。
 この踊りは約四〇〇年前に、島津義弘の朝鮮の役での凱旋祝いをたたえたものとして踊られたのが始まりとされる。
 太鼓踊りを中心に「つくいもん」と呼ばれる牛・虎・鶴・鹿などの大きな張り子の作り物が登場し、狩人とのやりとりを披露する。大名行列、琉球王行列、薙刀行列、甲冑行列などの行列が繰り出され、太鼓と鉦を持った二〇数名によって風流念仏(ふりゅうねんぶつ)太鼓踊りが踊られる。大里地区の色々な神様や先祖霊に踊りを奉納し、豊作を願う。
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2007/10/23


一迫町鹿踊 Ichihazama-chou-shishi-odori Ichihasama Shishi-Odori (Deer Dance)

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 一迫町鹿踊(いちはざまちょうししおどり)は、宮城県・一迫町で毎年7月に行われる、東北固有の文化・郷土芸能である。鹿の面を付けた演者が踊る、祖先供養を主とした魔よけの儀式で、400年以上昔から伝わる伝統芸能である。
 伝説によると、伊達政宗の時代、一迫町付近でひとりの猟師が岩倉山麓(いわくらさんれい)で、腹を叩きながら面白おかしく踊り狂う鹿の群れを目にし、あまりの楽しさにその輪に入って一緒に踊ったという。
 鹿踊では、雄鹿と雌鹿に扮した演者が、お互いの愛情を確認するシナリオに沿って狂喜乱舞数する踊りが披露される。
 一迫町鹿踊は、郷土色豊かな格調の高い神事。宮城県の無形民俗文化財にも指定されている。
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2007/10/16


よさこい祭り Yosakoi-matsuri Yosakoi Festival

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 その生れは以外に新しい。戦後の不況を吹き飛ばそうと、高知商工会議所が発案し、1954年から始まった祭り。徳島の阿波踊りを意識して作られた。
 鳴子(なるこ、作物を狙う鳥を追い払う農機具)を手に持って鳴らすことを思いつき、現在でもよさこい祭りの重要なアイテムになっている。
 開始当初は日本舞踊の振り付けを踏襲した盆踊りスタイルであったが、武政英策(たけまさえいさく)氏が楽曲の自由なアレンジを許したため、その後色々なバリエーションを生むことになった。現在ではサンバ、ロック、ヒップホップ、演歌、フラメンコ、フラダンスなど各々のチームが趣向を凝らした楽曲と振り付けを披露し、伝統を色濃く残す「正調」とともに観客を楽しませている。
 因みに「よさこい」とは、夜さり来い(夜にいらっしゃい)という古語が変化した言葉。
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